amazarashi

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を初めて聴いたのは、中島美嘉が歌う「僕が死のうと思ったのは」を偶然、動画サイトで聴いた時だった。

僕はその時、パニック発作が出そうな不安で動けなくなっていて、

おまけに、近づく台風の影響で低気圧となった気候の影響をモロに受け、

鬱が酷くて寝込んでいたのだ。

まどろんでしまってウトウトとしていたのだろう。

ふと、目覚めて、

朝なのか昼なのか夕方なのか夜なのか分からない

薄暗い部屋のベッドに横たわったまま、

僕はスマホの時刻を見た。

だけど、見ても何も思わなかった。

ただ、寂しかった。

喉が渇いていた。

でも起き上がれなかった。

ため息が出た。

仕方なく、指先が見慣れたアプリをタップした。

前日僕は、中島美嘉の「雪の華」を聴いていた事を思い出し、

もう一度同じ曲を聴こうと思ったのだ、恐らく。

スクロールした。

 

と、

 

そこに「僕が死のうと思ったのは」という文字を見つけた。

歌っているのは、中島美嘉。

躊躇したが、

それと同時に、

絶対聴いてみたいとも思った。

タップしてみた。

切実で、苦しくて、哀しくて、

そして、何より、美しいと思った。

その時の感慨はその一事に尽きる。

 

 

後になって、作詞・作曲者である、秋田ひろむの歌う同曲を聴いた。

その時、理解出来た気がした。

この曲は風刺というより、叫びだった。

だから届いたんだと、今になって思う。

 

「死にたい」「死のう」と思うことは個人の観念であり、それ自体、否定も肯定もできないことだ。

それは「生きたい」「生きよう」と思う事と同じレベルで。

 

個人的な事情で、辛さで、苦しさで、些細なことが原因で、「死にたい」と思うことがある。

実は原因となっているその「些細なこと」は、

本当は「些細なこと」では無いのかも知れない、と僕は思う。

なぜなら「死ぬ」とは「些細なこと」ではないからだ。

そこに「是非」は無いとしても、

「死ぬ」ということ、そう思うことは、決定的な「何か」だと思う。

そう思いながら、歌詞やメロディに運ばれて、

辿り着いたラストフレーズで、涙が出た。

 

 

「死にたい」けど「負けらんねぇ」と思ったのだ。

それは、忘れない。

***

いま、amazarashi「夜の歌」という曲を聴きながら、この記事を書いているが、

「この失望に僕は抗う」という一節がある。

これが、「生」への挑戦でなくて何だろう?

「この寂寥に僕らは生きる」

そう、僕らは、同時代を生きる「死にたがり」の「めんどくさい」仲間なのかもしれない。

amazarashiは、その切実さにおいて、聴くものを鼓舞し続ける。

 

「生きる事」、「頑張る事」が面倒臭いと思ったら、一度聴いてみて欲しい。

 

 

・「夜の歌」—『千年幸福論』収録(2011年)

・「僕が死のうと思ったのは」—『虚無病』収録(2016年)

 

amazarashi (あまざらし)