詩【朝の断章】

羅列の中に探す意図をなぞって、

散らばった記憶の断片をつなぐ

 

朝。

 

目が覚めたら、ため息と失意が、眠りの間際の独語を、ぬるい体温に溶かすけど、何の断りも無く、一日が、始まって。

目が覚めたからと、朝。

 

 

おはよう、ごきげんよう。

持て余す一日の重みに、困った顔で笑うきみに、

今日もいちにち、御愁傷様。

 

朝の光が、射抜けず、僕を。

・・・。

延命宣告。

 

 

散らばった、思考の糸が夜まで、

僕の、あさひるよるを。

こころについての短い雑感。

「心あるひと」という言い方が好きではない。

「あの人は心ある人だ」という時に、その発言者が言いたいのは、実は「あの人は、俺の心情をよく汲んでくれる人だ」という意味ではないか?

自分と同じ種類の心を持っている人だと言っているだけで、自分と同種の心以外は心と認めない、と言っているに等しい。

当たり前だが、心はひとつでは、ない。

 

「感情」はその多様性が徐々に認められつつあるのかもしれないが、

「心」は未だに、一種類の「心のかたち」しか認められていないような気がする。

 

善悪で。

大きい小さいで。

綺麗汚いで。

乱雑に、輪切りにされる。

 

一律に語られ誉め称えられ蔑まれる「心」が、

僕たちの多様な、

多角的な、

明るくもなり昏くもなり、

沈み浮き上がる

心の躍動が、

阻害され、疎外されている。

 

心は、本当は、

何処に「在る」のだろうか?

 

マイノリティの花 太宰治の「花」

マイノリティの根拠というものは、あるか。

マジョリティがマジョリティであることには理由がありそうだと、ずっと思っている。

しかし、マイノリティがマイノリティである理由(しかも、それは誰もが納得出来るような、正当な、)があり得るだろうか?

「理由がある現象」は、実は脆弱で、「理由の無いもの」が実は強靭なのだと、僕は考える。

「理由」とは根で「現象」は花だ。

ふと、そういう考えに至って、それは生きる事に似ていると思った。

 

いまから、心情とは逆のことを、言う。

生きるのに殆ど理由は要らない。言わば、生きることは今や、根は無いのに、花を咲かせることなのだ。

それが「生きる」ということであり、それは同時に、野心と図々しさに満ちた強さ以外の何ものでもない。

「死なないから生きている」でも、「生きるのが楽しいから」でもいいが、本当のところは人が生きるのに理由は要らないのではないか。

なぜなら、大した理由も無くひとは生まれ、そのまま生き永らえた末の姿が、現在(いま)の自分の姿なのだから。

要するに死ななかった、消えなかった自分の存在がいまここにあるということ。それはどんなに否定してもどうしようもない事実だ。それは強さである。それは強さである。

 

その「図々しさ」を結局のところ、我がものと出来なかった不器用な男が太宰だと思う。

『太宰よ! 45人の追悼文集 さよならの言葉にかえて』(河出書房新社編集部編)の中に、平林たい子の「脆弱な花」という太宰への追悼文が収められている。その中で平林は太宰の小説について次のように語る。

「太宰氏の小説の一つの魅力はあの脆弱美である。(中略)花を見ても、なぜ美しいかといえば、花びらの薄さや弱い感じをいう外ない。太宰氏の小説ではつまりその要素の比率が大きいわけだろう。」

 

生きるのに理由を求めてしまうと、途端に苦しくなるのは、自分が生きるのに大した根拠などないのだとすぐに気づいてしまうからだ。だから、嘯いて強がって酔っぱらったように騒ぎながら、限られた時間を駆け抜けていくのだ。

そうした姿を思い浮かべる時、僕は、切ない。他人に対して慈しみを感じる。余計なお世話だが。

 

無根拠の暗闇を凝視し続けて、平気で居られる者などいるだろうか。それは自分自身の、言わばパンドラの匣を開けてしまう取り返しのつかなさと同じだ。

そこから目を逸らして生きるしかないのだが、それを良しとはしない時、悲惨が訪れる。

その人間がそこに見るのは、「地獄」ではないのか。

地獄を凝視しながら、花を描くことが、例えば太宰の小説家としての生き方だったのかもしれない。

平林は、太宰の文学は身辺の環境から生まれたものだとし、先に挙げた追悼文を、以下のように結んだ。

「われわれをあれだけたのしませてくれるあのひょうきんな、上品な、才気横溢した芸術が、実は、陰惨と言ってもよい氏の身辺の配置から生まれたものだということは、読む者の一応承知しておかねばならないことであろう。誇張した言い方をすれば、そういうものの犠牲の上に咲いている花だ。」

違和感と無意識、或いは太宰治の過剰適応

自分で書く言葉が、自分自身にとってヨソヨソシク感じられて困っていたのはいつのことだったか。

今頃になって、ようやく少し、気負い無く言葉が出てくるようになったが、それは僕が嘘つきになったか、大人になったか、僕自身に「言葉」が馴染んだか、そのいずれでもないか——。

 

他者と分かり合おうと、擦れあうようにして、或いは捩れ合うようにして関わり、互いに傷つくことも、結果的に憎しみあうことも少なくなって生きやすくなった。

其れじたいは、喜ばしいことだろう。ただそれは、「話が通じる」ようになって、自分の「意図」するところが相手に通じて、自分が意図することが「社会」の中で一定の「意味」を持ち、現実化していくということとは違う。

一体、自分の意図が現実化するとはどういうことなのか。

欲望の具現化がすなわち何らかの意図の実現であることは論を俟たないが、何らかの言動の実行が欲望に反することもまた多いにあり得る。

僕たちは、シタイ事だけをするわけではないからだ。シタクないことを嫌々ながらする生き物である。

それは世間への「おつきあい」でする事かも知れないし、本来的でない心情の現れとして、「してしまう」何事かもしれない。例えば、「空気」を読んで我知らぬ間に作っている愛想笑いかもしれない。

最近、太宰治に関する簡単なアンソロジーの類いを幾つか読んでいて、中でも、太宰の師であった井伏鱒二の、太宰との「交友録」である『太宰治』(中公文庫)を読んでいて、太宰の「弱さ」について考えた。

ちなみに、「おつきあい」という言い回しは、井伏の言い方だ。井伏が「太宰治」の中の「おんなごごろ」の項で描いた太宰は、たとえば「過剰適応」しようとする臆病な小動物を思わせる。

とりわけ心中した「山崎富栄」 との関わりにおいて、太宰の弱さは周囲を不幸にし、自らの身を滅ぼした。なしくずしに「おつきあい」してしまった結果だと言わんばかりである。

自らの意図が、「社会の中で通用する」何かに「おつきあい」し、過剰適応した結果、言い換えるなら、初発の意図が、変わらぬ現実に適応した結果、齎されるのが自らの良くも悪くも素直な感情の滅死なのではないか。

書く言葉に違和感を感じなくなる、スムーズに考えが纏まることは、もしかしたら「現実」の中で生きやすくなったからではないかも知れない。

ただ、それは現実に僕たちが過剰に適応し摩擦を生まなくなっただけだとしたら——?

僕たちは、我知らぬ間に、自らの中のなにを、滅ぼすのだろうか?

『転位のため十篇』火の秋の物語 ――あるユウラシヤ人に――(吉本隆明)

 詩人・思想家吉本隆明の詩の中で最も好きな一編は、『転位のための十篇』の中の「火の秋の物語――あるユウラシヤ人に――」だが、なぜこの詩が好きかと問われてもうまく答えられない。

 ただ、僕はこの詩を読んでいつもイメージするのは「影絵」である。影絵が小さな画面のなかで動きながら、やや冗長な音楽が流れるー。

 *

 影絵は、血を流している。

 砂埃に塗れた風に吹かれている。

 その男は、影絵として存在した。

 感情を爆発させたくても、出来なくて、 ただ歩いた。

 兵士は、元はただの男だった。

 何かが、否応無く彼を、追いやった。

 それが何なのか彼は、ユウジンに応答を求める。

 そしてそれは徐々に、宣告に近くなる。

 内奥に、理不尽な憤りを抱え込んだ人間の問いは、他者に「生」を突きつける。

 *

 そんな想像に浸されながら、僕はこの詩を読む。

 誠に苦しい詩である。

僕には、その苦しさが「存在の危うさ」の前に自己格闘を続ける人間の痛み、その呻き声のように響く—。

 

***

転位のため十篇

火の秋の物語 ――あるユウラシヤ人に――

ユウジン その未知なひと
いまは秋でくらくもえてゐる風景がある
きみのむねの鼓動がそれをしつてゐるであらうとしんずる根拠がある
きみは廃人の眼をしてユウラシヤの文明をよこぎる
きみはいたるところで銃床を土につけてたちどまる
きみは敗れさるかもしれない兵士たちのひとりだ

じつにきみのあしおとは昏いではないか
きみのせおってゐる風景は苛酷ではないか
空をよぎるのは候鳥のたぐひではない
鋪路(ペイヴメント)をあゆむのはにんげんばかりではない
ユウジン きみはソドムの地の最後のひととして
あらゆる風景をみつづけなければならない
そしてゴモラの地の不幸を記憶しなければならない
きみの眼がみたものをきみの女にうませねばならない
きみの死がきみに安息をもたらすことはたしかだが
それはくらい告知でわたしを傷つけるであらう
告知はそれをうけとる者のかはからいつも無限の重荷である
この重荷をすてさるために
くろずんだ運河のほとりや
かつこうのわるいビルデイングのうら路を
わたしがあゆんでゐると仮定せよ
その季節は秋である
くらくもえてゐる風景のなかにきた秋である
わたしは愛のかけらすらなくしてしまつた
それでもやはり左右の足を交互にふんであゆまねばならないか

ユウジン きみはこたえよ
こう廃した土地で悲惨な死をうけとるまへにきみはこたへよ
世界はやがておろかな賭けごとのをはつた賭博場のやうに
焼けただれてしづかになる
きみはおろかであると信じたことのために死ぬであらう
きみの眼はちひさないばらにひつかかつてかはく
きみの眼は太陽とそのひかりを拒否しつづける
きみの眼はけつして眠らない
ユウジン それはわたしの火の秋の物語である  (1951.10)

   初出昭和27年六月一日『大岡山文学』(第八十八号) 逸見明

青臭い「言葉」のために(或いは準備運動としての)

本当だ、全くその通りだ、と思っても、何だか口にするのが躊躇われるような、気恥ずかしいような、言うなら、「青臭い」物言いというのがあって、僕たちは、いや、僕は、そんな言葉を大抵飲み込んでしまって、何とか、理論的な、情熱を抜き取った無機質な言葉をそこに置き換えて話してみたり、書いたりするけれど、たまに、そんな「青臭い」言葉を恥ずかし気も無く躊躇い無く、口にする人が居て、僕はそんな人を羨ましく思う。

自分は其れに、紛れも無く情熱を注いでいるし、極端に言えば、「愛情」を注いでいるし、その言葉でなければその愛情は言い表す事は出来ないし、それをそういう風に言えないのなら、違う言葉で誤摩化すくらいなら、言葉にしない方がマシだというような、非常な「覚悟」を持って何かの言葉を発し、メッセージを残そうとした人、今まさにそうやって言葉と向き合っている人が、僕は好きだ。

発せられた言葉、書かれた言葉は、「其の儘」受け取るしか方法はないのだと、僕の知り合いはかつて言ったが、それは本当にその通りだと思う。

そうでなければ、僕たちは「言葉」の何を信じたらいいのか分からなくなってしまうだろう。

言葉を信じられなくなったら、その先にはどんな「言葉」も無いのだ。

各人によって勝手に捩じ曲げられた言葉は、捩じ曲げた人のものでしかないし、生まれた姿とは別の何かでしかない。

少なくとも「理解」とは常に「誤解」の別謂であるという畏怖を人は持つべきだと僕は思う。

僕がやろうとしているのは「創作」で、言わば言葉を自由自在に駆使し、現出させたい世界を作り出し、読者に世界を「幻視」させることだが、それは観念の遊戯ではないと僕は信じている。だから書くのだ。

世界中の、様々な「問題」、テーマを我が事として考え、僅かでもその先に「光を見いだすための言葉」を其処(その問題の傍ら)に残す事を、することである。

それが書く事の目的、「書くということ」の、自分なりの「真実」である―。

と僕は、青臭い言葉で考えたのである。

それは、これから書いていこうとする僕が、自らの言葉を失わないための、言わば「失語症」に陥らないための、準備運動でもある。

 

はじめに ー跛行記としての創作ー

身も蓋もない言い方だが、

自分自身の来歴など、本当は誰も知らない。

 

気づけば僕は其処にいたし、世界は既に僕を取り囲んでいた。

 

僕の場合、その色彩と轟音はまるで「非現実的」で「暴力的」ですらあった。

だから、眠りの世界へ逃げ込もうとした。

けれど、過去に、確かに僕を包んだ安逸の世界は既にして失われた楽園と成り果てた。

僕は追い立てられるように「街」へ出た。

 

そして、僕は自らがマイノリティーであると思い知った。

様々な出来事のなかで。

様々な言葉の中で。

さまざまな痛みのなかで。

 

僕に「強い」精神を要求する人たちは、僕の敵だった。

僕に可憐な健気さを見ようとする人たちは極楽とんぼだったろう。

僕の歪な「個性」を羨む人たちは、想像力の欠如した浅はかさを露呈していることにも気づかない白痴だろう。

一番身近な人たちが、一番僕を消費し、僕に傷を刻んだ。

 

「障害は個性」などと僕は一度も思った事は無いし、その言葉を免罪符に、障害から目を逸らし続ける障害当事者も、

僕の理解の範疇の外である。

逆にこう言えないか。

「突出し過ぎた個性は、障害です」と。

個性的であり過ぎる、とは、どういう事か。

 

 

背負いきれないかも知れない、自分自身を、まだ、棄てずには居る。

 

跛行していく足跡を、残すことのみが願いである。

詩【跛行する日々】

湿気を含んだ重たい空気が僕の体にまとわり付く。

疲れた体を引きずりながら歩いた。

何も考えないようにしながら。

 

夕暮れが苦手なんだ。

 

手を伸ばしてみる。何に触れるだろう?

 

「過去の傷」なんて言いたくはない。

 

ひたすら、祈っているんだ。

手抜きなんか出来ないから。

 

涙がこぼれそうになるのを堪えてみる。

我慢することにどんな意味を見出せばいいのだろう?

 

それでも、息をつめて、我慢していた。

 

愛しい人の声が、世界一優しい音楽のように耳の奥で響いているのを感じながら。

 

 

詩【愛の機械】

目覚めと諦めが告げたのは、絶望と未達の、ねがい。

きみは知る哉、ぼくときみの隔絶を。

 

愛を歌う機械みたいなラジオが、

まるで、人みたいだから、騙されてしまう。

誰が悪いわけでもなく、騙されてしまう。

 

この、ぼくにしてみれば、

いや、

例え、きみにしてみたところで、

事情は多分、かわらない。

わからない、かわらない。

 

だって、ぼくは、

愛を歌う機械に、なりたいんだから。

 

だってぼくはきみになりたいんだから。

 

 

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