カテゴリー: 雑感

青臭い「言葉」のために(或いは準備運動としての)

本当だ、全くその通りだ、と思っても、何だか口にするのが躊躇われるような、気恥ずかしいような、言うなら、「青臭い」物言いというのがあって、僕たちは、いや、僕は、そんな言葉を大抵飲み込んでしまって、何とか、理論的な、情熱を抜き取った無機質な言葉をそこに置き換えて話してみたり、書いたりするけれど、たまに、そんな「青臭い」言葉を恥ずかし気も無く躊躇い無く、口にする人が居て、僕はそんな人を羨ましく思う。

自分は其れに、紛れも無く情熱を注いでいるし、極端に言えば、「愛情」を注いでいるし、その言葉でなければその愛情は言い表す事は出来ないし、それをそういう風に言えないのなら、違う言葉で誤摩化すくらいなら、言葉にしない方がマシだというような、非常な「覚悟」を持って何かの言葉を発し、メッセージを残そうとした人、今まさにそうやって言葉と向き合っている人が、僕は好きだ。

発せられた言葉、書かれた言葉は、「其の儘」受け取るしか方法はないのだと、僕の知り合いはかつて言ったが、それは本当にその通りだと思う。

そうでなければ、僕たちは「言葉」の何を信じたらいいのか分からなくなってしまうだろう。

言葉を信じられなくなったら、その先にはどんな「言葉」も無いのだ。

各人によって勝手に捩じ曲げられた言葉は、捩じ曲げた人のものでしかないし、生まれた姿とは別の何かでしかない。

少なくとも「理解」とは常に「誤解」の別謂であるという畏怖を人は持つべきだと僕は思う。

僕がやろうとしているのは「創作」で、言わば言葉を自由自在に駆使し、現出させたい世界を作り出し、読者に世界を「幻視」させることだが、それは観念の遊戯ではないと僕は信じている。だから書くのだ。

世界中の、様々な「問題」、テーマを我が事として考え、僅かでもその先に「光を見いだすための言葉」を其処(その問題の傍ら)に残す事を、することである。

それが書く事の目的、「書くということ」の、自分なりの「真実」である―。

と僕は、青臭い言葉で考えたのである。

それは、これから書いていこうとする僕が、自らの言葉を失わないための、言わば「失語症」に陥らないための、準備運動でもある。

 

Follow Me