「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」

私の時間

natsuhane
2019年7月27日2019年7月28日
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先月半ば頃、阿波しらさぎ文学賞に応募するべく、短編小説を書いた。

その後、しばらくして体調を崩し、二週間ほど入院した。大腸の病気であった。

一週間の絶食と安静が言い渡され、主治医の言いつけどおり、絶食と安静の時間を過ごした。

その間、毎日、毎日、点滴を五本打った。

一本あたり三時間ほど掛かる。

毎日、暇で退屈だったがそれが快適だった。

朝、目が覚め、検温。昼まで微睡みながら過ごし、たまに読書。

音楽を聴いたり、BS放送でメジャーリーグの試合を観る。気づけば昼。

他の患者の昼食の匂いをかぎながら、また眠る。

腕に刺さった点滴の針が何かの加減で痛む時は、その処置をしてもらう。

巡回でやってくる売店員から飲料を買う。

そうこうしているうちに、あっという間に夕方になる。

家族が欠かさず見舞いにきてくれる。

取り留めのない会話をしながら、家族は買ってきた夕飯を私の病室で食べる。

食べ終わる頃には、面会終了時間であるので、慌しく帰るのを見送る。

自動販売機でお茶を買う。夜中に目ざた場合の喉の渇きを潤すためだ。十時には消灯なのでそれまでの時間、読書かテレビを観て過ごした。

入院中、私は、退屈な暮らしをするにもひとによって「向き」、「不向き」があるのではないかと思った。

私は完全に、退屈な時間を過ごすのに「向いている」人間だと自覚した。自分の生きる速度を自覚した。

それを自覚できないが故の、無理を重ねてきた結果が今回の「病」だったのだと言っていい。

言うまでもなく、人生は時間の蓄積である。

そして「時間」は自分の「外部」にはない。

いや、外部にも他者は居るので、外部にも時間は流れるが、

であるなら、健康とは、病いとは、

自分の内部の時間と外部の時間の齟齬がもたらす「軋み」とは言えまいか。

 

自分の時間を生きることは、自分の人生を生きることである。

「他者の時間」を「自分」が生きてはならないし、そんなこと、どだい無理なのである。

 

自分の時間の中を生きること、

その中で十分に自分の時間を味わうことを、続けて行けたらと思う。

 

雑感