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自分で書く言葉が、自分自身にとってヨソヨソシク感じられて困っていたのはいつのことだったか。

今頃になって、ようやく少し、気負い無く言葉が出てくるようになったが、それは僕が嘘つきになったか、大人になったか、僕自身に「言葉」が馴染んだか、そのいずれでもないか——。

 

他者と分かり合おうと、擦れあうようにして、或いは捩れ合うようにして関わり、互いに傷つくことも、結果的に憎しみあうことも少なくなって生きやすくなった。

其れじたいは、喜ばしいことだろう。ただそれは、「話が通じる」ようになって、自分の「意図」するところが相手に通じて、自分が意図することが「社会」の中で一定の「意味」を持ち、現実化していくということとは違う。

一体、自分の意図が現実化するとはどういうことなのか。

欲望の具現化がすなわち何らかの意図の実現であることは論を俟たないが、何らかの言動の実行が欲望に反することもまた多いにあり得る。

僕たちは、シタイ事だけをするわけではないからだ。シタクないことを嫌々ながらする生き物である。

それは世間への「おつきあい」でする事かも知れないし、本来的でない心情の現れとして、「してしまう」何事かもしれない。例えば、「空気」を読んで我知らぬ間に作っている愛想笑いかもしれない。

最近、太宰治に関する簡単なアンソロジーの類いを幾つか読んでいて、中でも、太宰の師であった井伏鱒二の、太宰との「交友録」である『太宰治』(中公文庫)を読んでいて、太宰の「弱さ」について考えた。

ちなみに、「おつきあい」という言い回しは、井伏の言い方だ。井伏が「太宰治」の中の「おんなごごろ」の項で描いた太宰は、たとえば「過剰適応」しようとする臆病な小動物を思わせる。

とりわけ心中した「山崎富栄」 との関わりにおいて、太宰の弱さは周囲を不幸にし、自らの身を滅ぼした。なしくずしに「おつきあい」してしまった結果だと言わんばかりである。

自らの意図が、「社会の中で通用する」何かに「おつきあい」し、過剰適応した結果、言い換えるなら、初発の意図が、変わらぬ現実に適応した結果、齎されるのが自らの良くも悪くも素直な感情の滅死なのではないか。

書く言葉に違和感を感じなくなる、スムーズに考えが纏まることは、もしかしたら「現実」の中で生きやすくなったからではないかも知れない。

ただ、それは現実に僕たちが過剰に適応し摩擦を生まなくなっただけだとしたら——?

僕たちは、我知らぬ間に、自らの中のなにを、滅ぼすのだろうか?