「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」

マイノリティの花 太宰治の「花」

natsuhane
2018年11月22日2019年7月28日
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マイノリティの根拠というものは、あるか。

マジョリティがマジョリティであることには理由がありそうだと、ずっと思っている。

しかし、マイノリティがマイノリティである理由(しかも、それは誰もが納得出来るような、正当な、)があり得るだろうか?

「理由がある現象」は、実は脆弱で、「理由の無いもの」が実は強靭なのだと、僕は考える。

「理由」とは根で「現象」は花だ。

ふと、そういう考えに至って、それは生きる事に似ていると思った。

 

いまから、心情とは逆のことを、言う。

生きるのに殆ど理由は要らない。言わば、生きることは今や、根は無いのに、花を咲かせることなのだ。

それが「生きる」ということであり、それは同時に、野心と図々しさに満ちた強さ以外の何ものでもない。

「死なないから生きている」でも、「生きるのが楽しいから」でもいいが、本当のところは人が生きるのに理由は要らないのではないか。

なぜなら、大した理由も無くひとは生まれ、そのまま生き永らえた末の姿が、現在(いま)の自分の姿なのだから。

要するに死ななかった、消えなかった自分の存在がいまここにあるということ。それはどんなに否定してもどうしようもない事実だ。それは強さである。それは強さである。

 

その「図々しさ」を結局のところ、我がものと出来なかった不器用な男が太宰だと思う。

『太宰よ! 45人の追悼文集 さよならの言葉にかえて』(河出書房新社編集部編)の中に、平林たい子の「脆弱な花」という太宰への追悼文が収められている。その中で平林は太宰の小説について次のように語る。

「太宰氏の小説の一つの魅力はあの脆弱美である。(中略)花を見ても、なぜ美しいかといえば、花びらの薄さや弱い感じをいう外ない。太宰氏の小説ではつまりその要素の比率が大きいわけだろう。」

 

生きるのに理由を求めてしまうと、途端に苦しくなるのは、自分が生きるのに大した根拠などないのだとすぐに気づいてしまうからだ。だから、嘯いて強がって酔っぱらったように騒ぎながら、限られた時間を駆け抜けていくのだ。

そうした姿を思い浮かべる時、僕は、切ない。他人に対して慈しみを感じる。余計なお世話だが。

 

無根拠の暗闇を凝視し続けて、平気で居られる者などいるだろうか。それは自分自身の、言わばパンドラの匣を開けてしまう取り返しのつかなさと同じだ。

そこから目を逸らして生きるしかないのだが、それを良しとはしない時、悲惨が訪れる。

その人間がそこに見るのは、「地獄」ではないのか。

地獄を凝視しながら、花を描くことが、例えば太宰の小説家としての生き方だったのかもしれない。

平林は、太宰の文学は身辺の環境から生まれたものだとし、先に挙げた追悼文を、以下のように結んだ。

「われわれをあれだけたのしませてくれるあのひょうきんな、上品な、才気横溢した芸術が、実は、陰惨と言ってもよい氏の身辺の配置から生まれたものだということは、読む者の一応承知しておかねばならないことであろう。誇張した言い方をすれば、そういうものの犠牲の上に咲いている花だ。」

読書日記雑感