「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」

離人症?(当事者の可能性について)

natsuhane
2019年7月30日
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小説を書こうとすると急に思考がボンヤリとし、自分が今の今まで考えていたことの輪郭がぼやける感じがする、ということをここ数日繰り返している。

 

書くには困らないような「ちょっと奇妙なエピソード」はたくさん持っているつもりだが、その「ちょっと奇妙なエピソード」の信憑性が我がことながら怪しくなる気がするのだ。

これはもしかしたら、気が弱っているからそうなるのかもしれないと考えもするが、おそらくそのエピソードの記憶のされ方に狂いが生じているからではないかと、自分自身を訝る。

自分の記憶に鍵を掛けている。

記憶を変形しようとしている。

抑圧された過去の自らの記憶は、現在から振り返ってみれば、見聞きした「他者の記憶」と変わらない。

 

しかし、他者の記憶を自分が持つとはどういうことか。

そもそも、なぜその記憶を抑圧する必要があるのか。

自分自身の「いま」は「過去」の自分自身の記憶の集積だと定義するなら、

自分の記憶を抑圧することはすなわち、「いま」の自分自身を否定することに他ならぬ。

書こうとする内容が自分自身の記憶に触る物である場合、僕はいつもこの抑圧と向き合う必要がある。

それは、僕の自己破壊であると信じたいが、果たしてそうだろうか。

わからない。

仮に僕が僕自身の抑圧をはね返し、大らかに自らの地声で何かを書き得たとして、

それは僕以外の誰かのいわば「非当事者」にとっては、何だろう?

そうだ、「当事者」を巡る問題があるのだ。

そもそも、僕は、僕の、「当事者」か?

「責任」の観点から、そうであらねばならないが、僕には分からないことが多すぎる。

執筆日記雑感